たかいところが苦手

クソポエムを低いところから気分でいろいろ書きます。

欲望は底なし

2日連続で更新するという異常事態です。

 

冴えない彼女の育てかた最終巻を読み終わりました。

しっかりと原作を買おうと思ったのは、アニメ2期の放映中でそこからは頭がおかしいんじゃないかってぐらいハマってしまいました。

 

電子書籍で買ったので、暗い部屋で読めるのがやっぱりまずいんですよ。

頭のなかでずっと冴えカノのことを考えていて、割りと日常生活に支障が出るくらいでした。

アニメも1期を見終わったら2期、見終わったら1期……みたいな無限ループしてましたし。

 

でもそれくらいに面白くて、ずっと続きが読みたいっていう作品でした。

 

内容がどうとか、そういう話はもっと上手い人に任せるとしてまだ読んでない人へ。

面白いのでぜひ読んで欲しいです。

 

そしてタイトルの通り、まだ続きが読みたいという贅沢な欲望はとどまることを知らずに僕を苦しめています。

まだしばらくポエム期間は続きそうですが、フォロワー諸兄の方々はどうか生暖かい目で「こいつ頭おかしいんじゃねえの」みたいな感じで見てて欲しい……。

 

冴えない彼女の育てかた』。

ありきたりな言葉だけど、シンプルが一番だから。

この作品に出会えてよかった。

終わるのは悲しいけど、とってもとっても面白かった。

そんな物語に出会えて幸せです。

 

 

選択するということ。

『人生は日々の選択の積み重ねだ――』、そんな言葉をどこかで聞いたことがある。

 

確かに言われてみれば朝何時に起きるか、起きないか、そんなところから僕らは日々選択することを世界に、自分自身に強要されている。

 

じゃあ、「選択」ってなんなんだろうか。

たぶん一言で言えば「未来を捨てる」ことだと思う。

 

あの選択があるから今の僕がある。

でももしあのとき、あんな選択をしていたらどんな自分になっていたのだろうか。

それは「僕ではない」からわからない、あくまでも「予想」でしかないわけで。

 

そんな感情が後悔とか、悔しさとかそういったものに結びついているんじゃないか。

日々、そう思わない日はない。

でも些細な幸せが僕らの日常にはきっと待っていて、そんなちっぽけな希望を手にするために必死にあるべき未来を捨てているのかもしれない。

 

全部の選択は正しいし、間違っていると思う。

でも後悔や、悔しさは忘れるべき感情。

忘れなきゃいけない感情じゃないかとも思う。

 

悔しさをバネになんてよく言うけど、縮んだ瞬間に折れたら元も子もないから。

僕は日々、いろんなことを忘れて生きていく。

そんな器用な生き方はできないけど。

 

僕にとって夏は裏切りの季節なんて勝手に呼んでいる。

夏という季節は蒸し暑くて毎年無くなってしまえ、なんて勝手なことを言ってるけどきれいな季節だ。

だからこそ、人の汚さが見える。

それは他人だけじゃなくて、自分も含めて蜃気楼のようにぼやけてるけど確かにそこにある。

 

おかげでここ2年は他人と自分を心から信じられることなんてほとんど無くて、けっこう精神的に参った時期は本当に眠れなくて、睡眠薬に手を出した。

寝ればリセットできてとりあえずは大丈夫かななんて気がしてた。

 

裏切られたことをこんなネットの片隅に書くのはフェアじゃないし、一回それでお叱りも受けているのでここではよかったことを書きたい。

 

昨日と今日とちょっといいことがあった。

多分当人たちは少しも気がついてないだろうけど、僕にとってはとってもありがたかった。

だから直接言えなかった感謝の言葉で締めたいと思う。

ありがとう、多分これからも迷惑かけるけどよろしくね。

来週あたり焼き肉でも行こうや。

人が生きた記録。「余命10年」(小坂流加:文芸社文庫)

本当にどうでもいい話なんですが、僕はツイッターでよく見かける「ご冥福をお祈りします」という言葉が大っ嫌いです。

たぶんその人は本気で亡くなった人のことを思っているのかもしれないけれど、だからこそたった10文字で故人への思いを片付けてしまっていいのか、とても軽薄な言葉だといつも思っています。

いつもタイムラインに流れてくる訃報という文字を見るだけで、またあのテンプレートのように繰り返される嫌な文字列を見なきゃいけないのかと思うと憂鬱が加速する気がします。

 

なんでこんな話を書こうかと思ったかというと、今日もまた本を読んだからです。

 

余命10年 (文芸社文庫 NEO こ 5-1)

余命10年 (文芸社文庫 NEO こ 5-1)

 

 久々に外に出て本屋に向かい、お目当ての本と一緒に買いました。

まあ僕はよくあるんですが、表紙絵とちょっとしたあらすじをみるだけでレジへ向かいました。

最近僕が買う一般小説は人が死ぬ話ばかりだなぁと気がついたのは、この記事を書き始めてからなんですがこの小説はそれまでに買った小説とは違いました。

まず本を読もうと表紙を開いて著者のプロフィールに目を通したんですが、作者の方が今年の2月に亡くなられていたということが書いてありました。

僕はまたこのパターンなのか、とつい思ってしまいました。

全くの個人的意見ではあるんですが、音楽とか文芸とかそういった分野で作者が死ぬと全くそれまでその作者を知らなかった人たちまでが感動を求めて作品に群がるような気がしてならないのです。

別にそのことは全然悪くないと思うし、新しい作品に出会えるというのは素晴らしいことだと思うんですが、なんだかもやもやした気分になります。

またそれが売り出しとかに使われてるのを見ると正直って悲しくなります。本はとうとうこういう売り方をしないと売れない分野になってしまったのだな、と。作品そのもので評価されることがないというのは大変な侮辱のような、そんな気持ちになります。

 

それでも本書はそんな気持ちをどうでもよくさせるくらいに、僕は好きです。

10年という余命、死を身近に感じてからの短いか長いかわからないその時間は残酷であり、美しくも感じました。

そして自分は病人でなく1人の人間として見られたいという小さな願い。

そんな壁と戦って生きる一人の姿が美しく、そして少しうらやましくも感じました。

 

表紙の女性の表情。

本を買う決め手だったのですが、どこかその表情は満たされたいと感じるような空虚な笑みを浮かべている顔にどうしても引き込まれてしまいました。

 

本書は恋愛小説らしいですが、僕には1人の人間の伝記小説にも思えました。

他人との付き合いって難しいよねって話と本の感想と自分が思っていること。

 『蓮見律子の推理交響曲 比翼のバルカローレ』を読んだ。

 名探偵と助手。

古今東西そんなワードを聞くと多くの人は、シャーロック・ホームズ氏とジェームズ・ワトソン氏という普遍的な組み合わせにたどり着くだろう。

これ以降のシャーロック・ホームズについての薀蓄はお使いの端末や、シャーロキアンの諸氏にお任せするとしてつらつらと、感想にも満たないような思ったことを書いていこうと思う。

 

作者の杉井光氏を知る人には今更だろうが、彼の著作には音楽に関係するものが多い。

ここではあえてそれらの作品群を列挙することはないが、まあ音楽が好きだということは分かってもらえるだろう。

自分が彼の作品に初めて触れた時の著作も音楽モノでタイトルを「さよならピアノソナタ」という。

 元々クラシックと洋楽がそこそこ好きだった自分にとっては、ドンピシャな作品で今でもふと思い出して深夜に読み返すことがある。

良くも悪くも彼の作風が反映されていて、また好きな人は好きな作品だと思う。

そんな作品を読んで「著者:杉井光」という作品を書店で見かけると、財布の中身と相談しながらではあるがまあ買ってもいいかなと自分の中で思える文章書きの1人である。

 

今作はそんな彼の音楽と推理モノというまあ想像できそうなジャンルであることには変わりないが、悪く言えばつまらない良く言えば期待を裏切らない作品であると思う。

作品の雰囲気としてはブックマートの金狼を読んでる最中に思い出した。 

 キャラクター達の会話劇はいつもの彼の作品で、ちょっとにやけてしまった自分がなんか悔しくも懐かしく感じた。

そしてこの作品読んでいる最中は思ってもいなかったのだが、最後まで読むとなんとなくシャーロック・ホームズを思い出した。

才能があるが社会不適合者である「名探偵」と社会の爪弾き者だが常識のある「助手」という組み合わせ。原典というよりかは、ドラマ版のSHERLOCKのほうを思い出すのは私だけだろうか。

もしかしたら最近最新シーズンをみてその影響が抜けきっていないからかもしれないことが否めないので、あまり自信はない。

けれども、王道的な組み合わせは王道的な物語を生み出し読了後は続きが読みたいという気持ちにさせられるのはさすがだと感じた。

 

ここからは全くの余談なのだが、杉井光という人物を某大手検索サイトで検索しようとするとある作家の名前がでてくる。

彼と彼との確執はここでは述べないが、私は彼に好きな作家の名前を彼と言ってしまったことがある。

なぜそんな軽率な行為をしてしまったかといえば、その当時はその出来事を知らなかったというだけなのであるが、数カ月後にその時の彼の行動がどうしても気になって検索すると様々なページが出てきてとても青ざめた記憶が未だに脳裏から離れない。

その後しばらくすると、某巨大掲示板からの個人情報の流失が彼のした行為が露見する結果となり大いに荒れた。

その行為についてもここでは触れないが、多少失望したような覚えがある。

いまでもその事件の影響で彼の作品のレビューには低評価とともに彼を貶すコメントがよく見られる。

だが私がそれを目にする時に思い出すのは、私が大恥を後から思い知ったときの彼の言葉である。

『作家にまともなやつなど居ない。私は一般人なので筆を折ろうと思う』

そう彼は言ってのけたのである。

完全な一般人の私はその言葉を聞いてなにを思ったのかというと単純で、彼も十分まともではないという思いだった。

 

人という生き物は何かに感動したり、悲しんだりしながら生きている。

感情を揺さぶられる元凶は、ヒトの作り出すものである。

人間と人間の相互理解の難しさは私も日々生きながら試行錯誤のなかに居るが、作家という作品を通してしか知ることの出来ない存在を理解しようとする時に、彼らの作品だけでは明らかに足りない。

その不足は間違いなく幻想という誤解を生み出し、読者は作者にその幻想を押し付けがちに思う。

しかし相手もヒトなのである。

自分の思い込みが裏切られることなど数え切れないほどあるなかで、芸術作品に身を窶した作家という人間はまともではないと私は思う。

 

別に彼を擁護する気は毛頭ないのだけれども、そんな押し付けがましい思いは相手だけではなく自分も不幸にすることが多く不毛な結果しか生まないということをいつも思い知らされている。

生み出したものと生み出した本人、親と子が違う人間であるようにそれは全く異なるものである。

だから私はそれぞれを別々に評価していきたいと思う。

好きだったバンドのボーカルが死んだ。

自分が、朝まず起きてすることはツイッターのチェックである。

単にツイッター廃人というのかもしれないけれども、情報をぱぱっと仕入れるのにはちょうどいいので毎日の日課になっている。

 

今日もいつものようにTLを遡ろうとして身内のツイートを見た。

そしたら、チェスター・ベニントンが死んだというRTをみてしまった。

寝起きだし、現実味も薄くてニュースサイトをいくつか回ったけど、どうやら本当のことらしい。

そりゃある程度ファンやってれば、精神不安定だしいろいろな過去のあるチェスターのことだから何時死んでもおかしくないなんていうコメントも見たりした。

でも、そんなコメントや訃報という文字が入ったニュース記事はまるで夢を見ているようで余り実感がわかなかった。

 

何日か前にInstagramで彼の投稿した写真をみて、元気にやっているなーと思ったのを覚えていた。

まあよくあるデマかもしれないしとおもって、マイクのツイッターアカウントを覗いてみた。

困ったことにニュースは本当らしかった。

 

たちどころに、なぜか寂しいそんな気持ちになった。

頭では理解していなくてもたぶん心の何処かで理解したんだと思う。

 

僕がLinkin Parkの音楽に出会ったのは中学の頃だったと思う。

Faintのリミックス音源が使われていて、PVをみてライトに照らされて逆光のなかにいた彼のシルエットと音楽にかなりかっこよさを覚えた。

でもそれだけで、しばらくしてから当時よく見に行っていたニコニコ生放送の生主が放送内で流していたBGM(Road to Revolutionの原曲集)を聴いた時にLinkin Parkという存在を改めて認識した。

 

それからはファーストアルバムから当時出ていた4thまで何度も聴いたのを覚えているし、部屋で家族の迷惑も顧みずに下手くそな歌を歌ったような気もする。

5thが発売されたのは高校の時で、日々発表される情報が楽しみで毎日ワーナーのHPを見に行っていたのはいい思い出になっている。

それに高校時代は同じ委員会にやっぱりLPを知ってるやつがいて、そいつと何回もLPについて話したのはオタク趣味以外に話すことがあまりなかった僕にとっては結構楽しかった。

もちろん5thが発売されてからもRECHARGEDも含めてもう何回聴いたか覚えていない。

 

でも大学に入ってからはあまり触れることが少なかった。

それは多分自分の音楽嗜好がちょっと変わったこともあってTHPとかは何回か聴いただけになってしまっていた。

それでも今度の新アルバムは楽しみにしてて発売されてからも何回か聴いた。

それに来日の話もあって、幕張や5thのときのMステを払拭させるようなパフォーマンスを待っていた1人だったと思う。

 

そうしてなんだかんだで、今日好きだったバンドのボーカルが死んだ。

正直いまだに彼が死んだということをどこかで認められずにいる。

それは、僕のiPod からは彼の歌声はマイクのラップと、メンバーの演奏と共に流れてきてるからかも知れない。ある意味では世界中で彼は生きているから。

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この前、ロンドンオリンピックの閉会式の映像を見た。

最後の最後にThe Whoが出てきて演奏したときの、See Me,Feel Me/Listening To Youを今日思い出した。

たぶん僕にとって彼は「You」のような存在だったのかもしれない。

今はただ、彼の歌声で新しい音楽を聴くことが出来ない、そんな事実が胸をさしてくることがただただ悲しくて寂しい。

言いたいこと、そんなことはたくさんあるけど今はゆっくりと彼の声を聞きたい。